「ほっ」と。キャンペーン
先月末の話題で、ちょっとばかり古いネタですが
まずは、下の映像を見て下さい。

これは実際に、1928年に撮影された映像ですが、
シマウマの後ろを通りかかる女性が携帯電話を掛けているように見えます。
しかも途中で、相手の声を聞き返しているように立ち止まり身体の向きを変えます。
ネットでは、こんなニュースになりました。
>>『時間旅行者? 1928年の無声映画で携帯通話』CNN co.jp(2010.10.29 Fri)

映画制作者のGeorge Clarke氏が発見したタイムトラベラーの動画は、
日本でもちょっとだけ話題になりました。
++++++++++++
2 名前:七つの海の名無しさん メェル:sage 投稿日:2010/10/29(金) 12:24:45
タイムパトロールに通報しますた

3 名前:七つの海の名無しさん 投稿日:2010/10/29(金) 12:27:46
タイムパトロールに通報されますた

4 名前:七つの海の名無しさん 投稿日:2010/10/29(金) 12:29:59
>>3 時間旅行者乙!
 こんな、現代人が見たらなんとも思わない仕草に気づいた監督さすがです

5 名前:七つの海の名無しさん メェル:sage 投稿日:2010/10/29(金) 12:35:20
耳がかゆかったんだろ

6 名前:七つの海の名無しさん メェル:sage 投稿日:2010/10/29(金) 12:36:03
無線機やテープレコーダーにしても小さすぎるか
電話してるつもりの狂人かな

7 名前:七つの海の名無しさん 投稿日:2010/10/29(金) 12:38:39
時空の歪みだな 
数十年後に同じ通りを歩いている人が映り込んだのだろう

14 名前:七つの海の名無しさん メェル:sage 投稿日:2010/10/29(金) 13:10:08
メガネのフレームに手を添えてるように見えるけどな?

15 名前:七つの海の名無しさん 投稿日:2010/10/29(金) 13:14:03
今、俺が1928年にタイムスリップしたとする。
でポケットから俺の携帯を取り出して、
タイムスリップしたことを伝えようとする。
でも圏外なんだよな。電話を掛ける相手もまだ生まれてない。

22 名前:七つの海の名無しさん 投稿日:2010/10/29(金) 13:33:13
か、母ちゃん!

37 名前:七つの海の名無しさん メェル:sage 投稿日:2010/10/29(金) 20:43:37
あれが携帯だとマジで信じてるアメリカ人は低能だと思う。

39 名前:七つの海の名無しさん メェル:sage 投稿日:2010/10/30(土) 00:29:55
「オルゴールを聴いて歌ってる」が事実

40 名前:七つの海の名無しさん 投稿日:2010/10/30(土) 01:59:50
補聴器の調子が悪いんじゃないか?

42 名前:七つの海の名無しさん メェル:sage 投稿日:2010/10/30(土) 12:36:49
>>14
ネタバレ禁止
++++++++++++

これ実は、チャップリンの映画『サーカス(1928年)』のチャイニーズ・シアター(ハリウッド)でのプレミアム試写会の様子を撮影したもの。『サーカス』のDVDに特典映像としても収録されているドキュメントで、よく見ると「CHARLIE CHAPLIN」「CURCUS」と書かれた看板が映っています。それにしても、携帯を使っている女性だと聞くと、そのようにしか見えないのが面白い。
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先の記事“『ライムライト』での小道具操作:監督C.チャップリン”で、小道具の肖像写真が入れ替わるシーンが2ヶ所ある事を書いた。その後、アップしてから改めて画像を見て気付いた事がある。小道具の肖像写真と共に“照明”も変化していたのだ。

突然テリーが歩けるようになる一連のシーンで、はっきりと照明が切り替わる。ただしそれは、壁やそこに掛けられた写真や置き時計など、暖炉から後ろの背景に注目。
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写真『A(チャップリン本人の若き日の肖像)』の時には、時計の右手側から光が当たっているのに対して、写真『B(ノミのサーカス)』に入れ替わる時、逆方向からの照明に切り替り、写真の額を含めた壁全体も明るく照らされる。時間が逆行した不思議な時計の文字盤も明るく光って見える。そして、テリーの絶叫シーンになると壁の写真と共に照明も元に戻る。こういった照明の操作も、小道具の入れ替わりと同じように“潜在意識にショックを与える”効果を狙っているのだろうか。

次も同じ部屋だが、こちらは昼間。このシーンでは写真が『C(カルヴェロのウェストショット)』と『D(全身像)』の時では、窓から射し込む光に微妙な違いがあるが、これは同じ照明を狙ったが、たまたま少しズレただけ…と考えていいだろう。
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…という事は、小道具については少なくとも同テイク内で置き換えた撮影ではないし、照明の詳細も記録されていた可能性が高い。照明の記録がされているのなら、小道具の位置も記録されているはずだ。以前、『ロー・アングル ≠ ロー・ポジション』という記事に載せた『独裁者(1940年)』での突撃隊の突入シーンを思い出した。
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※ほとんど繋がったシーンで、
 カメラ・ポジションも同じなのに空の様子が全く違う。
“入れ替わり”といえば、ちょっと奇妙で気になるシーンがある。小道具ではなく“人物”が入れ替わるのだ。
それは、テリーの脚が治り、復帰するエンパイア劇場を見せる“繋ぎシーン”で見る事が出来る。豪華な劇場のホールで男性を物色する着飾った女性達。まず、何やら急いでいるような女性が階段を駆け上がり、毛皮を纏った女性とすれ違う。
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階段を降りたところでカットが切り替り3人目の女性が歩くのをカメラが追う。柱を越えて手すりの腕を置いた男性が一瞬映る。
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すると次の瞬間には毛皮の女性が柱を越えて男性の隣に立って手すりに付く。この切り替えは映像で見ると、人が入れ替わったように見える。
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毛皮の女性は一人目の男性にそっぽを向かれ、また歩き出し、柱を2本越えた男性と意気投合する。
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多くの女性達が同じような行動をしている事を手短かに表現したシーンだとは思うが、それだけでなく、“入れ替わった”ように見えるトリッキーな編集は、たとえばカルヴェロとテリーの“世代交代”を暗示させる演出のようにも思える。

さらに小粒(笑)なネタを、あと二つ…
- - -
初めて『ライムライト』を観たのは高校生の頃。予備知識ゼロで映画館へ行き“ヒゲのないチャップリン”を楽しみにしていた。いきなり最初のシーンで山高帽と黒い服の手回しオルガン弾きが画面の真ん中に映り「ひょっとしてチャップリン?」と期待した。しかしカメラが移動してアパートの中に入り、ベッドで横たわっている女性が映ると、おかしな流れだと思い始めた。カットが変わり、再びオルガン弾きが映ると、その向こうから白っぽい帽子を被ってフラフラ歩いている人。そこで初めてこっちがチャップリンだったと気付いた。しかし今でもこのシーンは、別の対象に目を向けさせておいて意外な所から“入れ違いに”登場する演出だと思っている。
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- - -
よく間違われるのが「愛と勇気とサムマネー」または「愛と勇気と少しのお金」という言葉。実際のセリフはこうだ。

「人生を恐れてはいけない 人生に必要な物は
 勇気と 想像力と・・・少々のお金だ
 (Yes, life can be wonderful, if you're not afraid of it.
 All it needs is courage,imagination,(少し間を置いて)and a little dough.)」

「愛」なんて単語は出て来ない。チャップリンの書いた脚本は、とても現実的な言葉だ。映画の中の『春が来た』という唄では嫌というほど(笑)「Love」という単語が出て来るし、カルヴェロの口からも時々「Love」という言葉が出て来るが、どちらも「恋」という意味合いでの「愛」だと思う。だから「前向きに能動的に考えて生きよう」と語る言葉には馴染まない。
「dough」は直訳では「パン生地」のことだが「a little dough」になると「少々のお金」という意味になるそうだ。日本語訳を更に英訳した結果「Some Money」になってしまったんだろうが、そのルーツはどこだろう。
1970年代に日本でチャップリン映画が次々に公開された“ビバ!チャップリン”シリーズ。この長期に渡るイベントに使われたロゴの中に「SOME COURAGE, SOME MONEY, AND BIG LOVE」とある。別に『ライムライト』のセリフから引用した訳ではないが、ここに「MONEY」「LOVE」という単語がある。
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同じ時期に“ビバ!チャップリン《喜劇王チャップリンのすべて》”というタイトルで出版されたA4/120頁ほどの冊子の中に評論家・扇谷正造さんが綴った『サム・マネーほか』というコラムがある。そこでは、漫画家サトウサンペイさんのこんなエピソードに触れている。ふらっと立ち寄った映画館で上映されていた『ライムライト』の中で老芸人が言う。人生にとって大切なものが三つ。そのうちの二つは忍耐と愛だったか、あるいは勇気だったか忘れてしまったが、第三のものはサム・マネー。このセリフにサンペイさんは唸ってしまい「サム・マネーなら今の自分にだってある。」と脱サラに踏み切った。・・・
意外と「想像力」という言葉は出て来ないものだ。『ライムライト』でのワン・シーン。ある朝、目覚めたテリーが脚の感覚がなくなっている事に気付き、自分には希望もなくなった、幸福なんてどこに存在するの、とカルヴェロに泣いて訴えた。バレエ・ダンサーにとっては致命的な症状のはずなのに、カルヴェロは顔色も変えず自分の“額”を指して言う。

「幼い時 私がオモチャをねだると父が言った
 これが最高のオモチャだ すべての幸福の秘密がある」

テリーに同情したり憐れむような言葉ではなく、人間の持つ『想像力』が大切だと説得したのだった。

※追記(10月20日):メモ
カルヴェロが最期近くに口にした一言。
「心臓と心・・・ 何という謎だろう(The heart and the mind... what an enigma.)」
これがよく分からない。自分では、背中(背骨)を傷つけたと言っているが、実は心臓(heart)がやられた事は自覚していたのだろう。その事と心(mind)との関連は?

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映画を2次元の芸術と割り切った小津安二郎は、3次元的な整合性よりもカット毎にベストな画の繋がりで一連のシーンを組み立てようとした。その為には、照明装置や小道具の位置さえもカットが替わる度に検討し直され、必要とあれば移動させられた。目的と手段は違うかも知れないが、似たような“小道具の操作”が観られる映画がある。チャップリンの『ライムライト(1952年)』だ。

映画の舞台は生まれ故郷のロンドン。物語は第一次世界大戦が勃発した1914年の夏から始まる。またチャップリンが映画デビューした年でもあり、父チャールズ・シニアが生きていれば51歳となる頃。現実にはアルコールが原因の肝硬変で38歳という若さで死去した。母ハンナは極度の貧困のため精神を侵され入退院を繰り返した。
一方、『ライムライト』の主人公カルヴェロは年老いた舞台コメディアン。かつては喜劇の名優と呼ばれたが、最近は仕事もなく酒浸りの日々。ヒロインであるテリーは若いバレリーナだ。ガス自殺を図るがカルヴェロの救助により一命を取り留める。しかし精神的な原因により両脚がマヒしてしまう。ロンドンの大衆演劇界のスターだった父チャールズと母ハンナを思わせる人物設定だ。ただし映画の二人は大きな年齢差がある。この“歳の離れた”二人にとって「転機」となる2つの場面に、奇妙な“小道具の操作”が行われているのだ。

それらのシーンの前に、小道具の操作がされていない“通常(デフォルト)”の状態を見てみる。

※クリックで拡大(以下同)
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久々にミュージック・ホールの出演が決まり、日程の連絡を心待ちにしているカルヴェロ。リハビリ中のテリーは編み物をしたりカルヴェロに新聞記事を読み上げてやったり、不自由な脚を引き摺りながらもコーヒーを注いであげたりと、平穏な生活を送っている。壁に掛けられた肖像写真の位置は、左から『C(浮浪者に扮したカルヴェロのウェストショット)』、真ん中は『A(チャップリン本人の若き日の肖像)』、右手側は『D(浮浪者カルヴェロの全身像)』だ。暖炉の上にある置き時計は、最初『9時10分』を指し、会話を交わしているうちに『9時15分』となり(真ん中の画像)、カルヴェロが立ち上がると『9時17分』頃まで時間が進む。映像上では2分程の時間だが、自然な時間経過だろう。この直後、ミュージック・ホールの初日を知らせる電報が来る。カルヴェロはテリーに“オルソップさん(大家)”への電報だと誤摩化し、公演日の事は内緒にする。

小道具が置き換えられるという奇妙な操作は、まず次のシーンで見られる。この件については、1989年に出版された“故・江藤文夫(1928—2005)氏”の著作『チャップリンの仕事』に書かれていて知った。ただし、2点ほど“間違い”ではないかと思われる箇所があるので、以下で詳しく説明。

- - -
初日、独り舞台の演目中に客がほとんど帰ってしまう大失態を見せ、契約を打ち切られるという大きな「転機」。深夜に力なく家路に向かう時、時計台の針は『3時15分』。
(※10月18日追記:文字盤が、周りより微妙に明るく映像処理がされているようだ。)
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部屋に帰ったカルヴェロの様子が変だと気付き心配するテリーに、ミュージック・ホールの契約が打ち切られた事を告白する場面。

カルヴェロ「劇場が契約を打ち切った」
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まだ、暖炉の上には写真『A』が掛けられている。置き時計は『3時45分』。

「そんな事できないわ」「できる 打ち切った」
「1週間の契約よ 抗議できるわ」「ムダだ 私は終わりだ もうダメだ」
テーブルに伏せて泣き崩れるカルヴェロ。

「バカな事を(Nonsense!) カルヴェロが1回の舞台で旗を巻くの?・・・」というテリーのウエストショットを挟んで、カメラポジションが戻ると、壁の肖像写真は、突如『B(ノミのサーカスの扮装)』に入れ替わる。
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夢中になってカルヴェロを説得するテリーは、いつの間にか立ち上がり、マヒしていたはずの脚で歩いていた事に気付く。

テリーだけのショットになり「I'm Walking!」と歌うように叫ぶ。
壁の写真は元通り『A』に戻っている。
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時計の右手側に掛けられていた写真『D』は、ちょうどテリーの頭の真後ろに来るため、このカットでは画面の構成上の問題で外されていると思われる。

※『チャップリンの仕事』には、こう書かれている。
「カルヴェロの過去を語るこの写真群のなかに、若き日のチャップリンの横顔の肖像がまぎれ込んでいる。テリーの絶叫シーンで入れかわるのはこの写真だ。(略)彼がテリーに語りかける一ショットにおいて、カルヴェロはこの写真の前に立つ。(略)これだけ壁の写真を目立たせている作者が、テリーの“I'm Walking!”の絶叫シーンで、背後の写真を無意識に入れ替えるはずはない。」
また、立ち上がったテリーと絶叫するテリーの写真を並べたページでのキャプションには「“I'm Walking!”と絶叫する場面で,置時計の左側の写真が,その一瞬,替えられるのは,カルヴェロをチャップリン自身と重ね合わす操作のためか」とあるが正確には、絶叫シーンで“戻る”というのが正しい。

写真『B』は、いつもならカルヴェロの枕元に“CALVERO”の文字が印刷されたポスターと並んで掛けられている肖像だ。若き日の素顔から、誇りを感じさせるような表情の舞台姿への“差し替え”が意味するものは何だろう。
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置き時計の指す時間も、壁の写真と連動して入れ替わる。帰宅後からテリーの絶叫までの時間は、ずっと『3時45分』だが、テリーの口調が激しくなる場面では『3時30分』と時間が逆行する。(※『チャップリンの仕事』には3時40分と表記)テリーが顔色を変え、かつてカルヴェロに励まされたように彼を激しく説教する間だけ“小道具”と“時計の針”が変化する。

壁の写真と連動して入れ替わる事から、撮影時のミスとも考えられるかも知れない。しかし、多くの撮り直しで時間をかけるチャップリンが、時計の針を自然に任しておくとは考えられない。最初に紹介したシーンでは“自然に”時間が進行するように撮影・編集されているし、今回のシーンの前には時計台の『3時15分』が明示されている。“I'm Walking!”のシーン後、夜明けの道を二人で歩き、ベンチに腰掛ける時カルヴェロはユーモアを込めて“時間”を口にする。
「もうダメだ もう歩けないよ 5時になるんだ」

その他にも時間が明示されるシーンがいくつかある。
エージェントから電報を受け取ったカルヴェロが
「3時に会いに行く」と言う。
そして、待ちぼうけを食っている場面で、時計『4時10分過ぎ』を示している。
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役が与えられなかった人達を帰して、事務室に戻るとエージェントは尋ねる。
「誰がいる」「Miss Parker」「他に?」
「カルヴェロが3時から来てます」

- - -
次に小道具の操作が登場するのは、復帰したテリーが大成功を収めた翌日のシーン。そこまでの流れは…

脚が治ったテリーはエンパイア劇場に戻り、かつて恋心を抱いた若き作曲家ネヴィルと再会した。

※ちなみに、ここでも“時間”が語られる

ネヴィルの弾くピアノに合わせて即興で踊るテリー。
終わると、すぐさまテリーに近づき
「昼食にしよう 1時半に集合だ」「君はこの劇場の次のプリマ・・・」
「2時半に私の部屋に集まって契約しよう」「稽古が2時で」
「では6時だな」

彼の作曲した新作バレエに主演することになり、カルヴェロには道化の役が匿名で与えられた。バレエ『コロンビーヌの死』は大成功を収める。

新聞に載せられたテリーを絶賛した記事を、今度はカルヴェロがテリーに読んで聞かせる。テリーは、すぐにでもカルヴェロと結婚して“幸福”に暮らしたいと言う。このシーンでは置き時計を挟んで『A(若き日の肖像)』の右側には、今までとは替わり『C(カルヴェロのウェストショット)』が掛かっている。
カルヴェロ「年寄りにムダだよ」
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「私のために青春をムダにするのか」

振り向いて
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「私は出て行く・・・」

テリーのアップに切り替る「何を言ってるの・・・」

再びカメラポジションが戻ると額の写真は『D(全身像)』に替わる。
“ハッ!”と何かに気付いたように言う。
「どうしても出て行くしかない」
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突然、芝居がかったような激しい口調と身振りになり、窓辺に向かって歩き、ぐるっと向きを変え、再び暖炉の前に戻る。
「残された年月で真実(Truth)を掴みたい Truth! Truth!・・・」
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再び窓辺まで歩きながら「・・・それと少々の誇りが」

テリーのアップ
「あなたが行けば私は死ぬわ・・・」と懇願する。

再び振り向いて戻り、暖炉の前を横切ってソファに座る。
壁の写真は『C』に戻っている。
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「君が愛しているのはネヴィルだ・・・」

写真『D(全身像)』は、『B(ノミのサーカスの扮装)』と同じくカルヴェロの枕元にポスターを挟んだ反対側“にも”掛けられている。(つまり、いつも2ヶ所に掛けてある?) 映画では鮮明に映る場面はないが、スチル写真では、はっきりと見られる。
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成功したテリーと作曲家ネヴィルの登場という二つの大きな「転機」の後。まるで壁の写真の変化に反応するかのように、突然カルヴェロの心に沸き起こる感情。このシーンでは、時計の針には変化がなく、ずっと『9時20分頃』で固定されている。

- - -
肖像写真と時計が、この映画の中で“意味のある”存在だという事は、その後のシーンでも明らかだ。

稽古に向かうカルヴェロと劇場の前で帰りの“時間”を約束するテリー。
「6時までに帰るわ」
楽屋口に向かおうとすると背後から旧友の声がする。カルヴェロの代役候補として来たのだ。代役取りやめの連絡が間に合わずに起きたハプニングだったのだが、これでカルヴェロは「決心」をする。

置き時計は、6時をほんの少し過ぎた時間を指している。
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写真の額やポスターが全て剥がされ、壁紙には白く跡が残っている。
カメラが部屋中をパンしながら映し出し、ドアまでくると止りテリーが部屋に入る。部屋の様子が変わった事に愕然とし、置き手紙を見つける・・・。
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- - -
テリーから去ったカルヴェロは、流しの芸人となってロンドン中を廻っており、偶然ネヴィルと遭う。すでに軍に勤務していたが、ロンドンに来た時には必ずテリーに会っているという。そこでカルヴェロは“時”に関する名ゼリフを口する。

「時は偉大な作家だ 常に完全な結末を書く
 (Time is great author. It always writes the perfect ending.)」

肖像写真が入れ替わるシーンの画面構成は、ほとんどが肖像写真やポスター、そして置き時計が見えるように意図的にフレーミングされている。そう考えると、“置き時計”という設定も、肖像写真と並ぶような高さにするためのアイデアなのだろう。たとえ、時間が戻ったり写真が入れ替わったりする画面に観客が気付かなくても、“潜在意識”には「何かが変わったかも」と思わせる効果があるかも知れない。潜在意識といえば、テリーの脚のマヒの原因ついて担当医が「潜在意識が働いているのだろう」とカルヴェロに話すシーンもある。

考えてみれば、写真は“時を切り取ったもの”だ。シャッターを押した瞬間に時間が止まっている。一方、時計は常に“現在”を示す装置。上に挙げたシーンのうち最初の平穏なシーンでのみ、時計が時間通りに進行している。
肖像写真が入れ替わる1つ目。説教される立場だったテリーが、恩人のカルヴェロを強い口調で説得し始める瞬間に“時が一瞬戻り”、カルヴェロのスター時代と思われる肖像写真に入れ替わる。かつて栄光を掴んだ人間は、そこで時が止まってしまいがちだが「その栄光の時間を思い出すのよ」と訴えるテリーの気持ちを表しているのか。
もう1つの肖像写真が入れ替わるシーンでは、テリーの元を去るというカルヴェロの「閃き」(決心とまではいかない)が訪れる瞬間に“通常”の位置に戻る。
これは「自分が今この部屋に居ること自体が不自然に感じる」というカルヴェロの気持ちを表しているのか。そして、時が止まっているのは“張りつめた空気”を表現している…などと考えるのは少々こじつけ過ぎだろうか。

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b0183304_153942100.jpg『ライムライト(1952年)』
・監督/脚本/作曲/主演:チャールズ・チャップリン
・撮影:カール・ストラス(撮影顧問:ローランド・トザロー)
・出演:クレア・ブルーム,シドニー・チャップリン,バスター・キートン
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撮影と小道具に関する「小ネタ」という記事で、小津はカット毎にベストな画を創るために、湯呑みなどの小道具を移動させる事について書いた。ところが、たまたま見つけたカットは重箱の隅を突くようなもので、実はどうもスッキリせず“小ネタ”ということで紹介しました。
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ところが、こちらのブログでもコメントを頂いたmixiの「KEIさん」という方から、同じ『彼岸花(1958年)』での赤い小道具の移動が不自然で違和感を持っていたとのメッセージと書き込みがありました。「カットから別のカットに移ると、さっきと小道具の位置が変わっていることが、ずっと気持ち悪いと思っていた」そうです。しかし悔しいことに(笑)、そこまで目立つ小道具の移動が発見出来ずにいたのでした。その事をトピックでコメントしたところ、具体的にシーンを示して頂けました。移動していたのは有名な赤い(朱色の)ヤカン。やはり、これを載せずして小津の「カット単位の小道具」の秘密を知った事にはならないでしょう。改めて見てみると、どうして気付かなかったのだろうという具合の小道具操作。以下、そのシーンです。

- - -
何かを言いたげな、異様に目立つ赤い(朱色?)ヤカン。
静止カットでは部屋の角に置かれている。
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平山(佐分利信)の帰りを清子(田中絹代)が玄関で迎える。
ヤカンの位置は変わらず。
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ところが平山が部屋に入ると、ヤカンは障子の端まで移動。
襖の向こうから存在をアピールしてます(笑)
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- - -
次に幸子(山本富士子)が平山邸を訪ねるシーン。
玄関で出迎えるカットでは、さっきのシーンと同じく部屋の角。
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カメラポジションが変わっても位置は変わらず。
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ところが幸子が部屋に入ると、ヤカンは障子の組子2つ分ほど部屋の中央に移動。
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女中が来て、幸子が一旦部屋を出る。
廊下をぐるっと回って茶の間の向こうから平山に話しかける。
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幸子に応える平山のカットでは、ヤカンは更に移動。
障子の端を越えてしまっている。
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- - -
次に、このブログでも何度か載せている『宗方姉妹(1950年)』の2つのシーン。これも、アップと全身ショットで照明が逆になる分かりやすい例としてmixiのトピックにコメントついでに掲載したところ、またもやKEIさんは「小道具が動かされていますよね」とズバリ指摘(笑)
見直してビックリ。自分で切り取った画像なのに全く気付かなかった。

このアップでのカットは、器の乗った台が右に寄せられている。
タンスと鴨居の上に乗った小物と一緒に中央に移動しているようだ。
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もう一つのシーンでも、アップの時は台が中央に移動。
タンスも中央に寄り、鴨居に掛けられた洋服に接近。
縦枠は田中に隠れて見えない。
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正確ではないが、小道具のサイズに合わせてアップの画像を縮小すると、こちらのアップ(バストショット)の方が小さくなる。アップの撮影では上の明るい着物のカットよりも奥の襖に近い距離で撮影しているという事だろう。

このように、画面に入れたいものはシーン全体としての整合性がなくてもスクリーンのフレームに収まるように、その都度移動させられ、小津の思い描く1カット1カットとして撮影されるのか。きっと丹念に探していけば、こういったカットはもっと見つかるのだろう。

次回は、チャップリンの『ライムライト(1952年)』での小道具の移動というか差替え操作について書きます。

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友人と数人で川に遊びに行った。
何をやっていたのか覚えていないが、それぞれバラバラに行動。
ふと橋の上から下を覗くと、エンジ色の小型車が
道路を外れて1メートルほど下へドスンと落ちた。
いや、わざと“降りた”のだろう。
何事もなかったかのように、そのまま川沿いの草むらをジグザグに走り出した。
ドアが開いていたのか、子供が車外に放り出された。
緑色のTシャツを着た10歳くらいの小太りの男の子だった。
その子が転がっている上を狙って車を走らせ、轢こうとする。
これは異常事態だ!

恐怖を感じた僕は、卑怯な事にその場から逃げようとした。
人が死ぬのは見たくないし、関わり合いたくないと思ったのだ。
友人の一人が息を切らせて、橋の上にいる僕の近くに駆け寄りながら叫んだ。
「男がナイフを持って子供を殺そうとしてる!」
勇敢なことに、友人たちは狂った男を捕まえようとしていた。
子供がどうなったか分からないが、橋の下はパニック状態。
車から降りた男は、無差別にナイフを振りかざして暴れているようだ。
僕は携帯で「1・1・0」を押そうとするが、何度も何度も間違えてばかり…。
焦っていると、サイレンの音が聞こえた。
誰かがとっくに警察を呼んでいたようだ。

急に辺りが静かになった。
何故か一時的に騒動が収まり、男は飲食店に入っていったらしい。
僕の友人の中でもリーダー格というか、イベント(遊び)の幹事が
犯人の男を外に誘い出そうと店のドアをそっと開けて中を覗いた。
しばらくして、外で様子を見ていた僕らの方に向かって歩いて来た・・・
(そこから先を覚えていないが、大事件にはならなかったようだ)

到着が遅れていた女子の連中5〜6人が
橋の向こうからこちらに向かって手を振っているのが見えた。
なぜか僕一人だけ、長袖のワイシャツに海パンという意味不明の格好をしていた。
しかも、学校の体育の授業で穿いていたような濃紺の海パン。
そのパンツのサイズが合わなくて、ずり落ちそうになる。
ウエストを折り返してもダメで、左手で海パンを掴んでいた。

全員揃ったところで、昼食にしようという事になった。
古びた食堂を見つけ、ウインドウに並んだサンプル・メニューを眺めた。
僕が「カレーライスがないなぁ」と呟くと、一斉にブーイング。
「あるわけないだろ。お前はザルそば!」と勝手に決められ店内に入る。
座敷の部屋に上がるがテーブルも椅子もなく、輪になって座った。
一人が僕に向かって「そういや、こいつ一度、金を払わずに帰ったなぁ」と言うと
別の男が「この前なんか、つまらん事で口論になって俺を殴ったし」などと話す。
全く身に覚えのない話で唖然としていると
ある女性は「え〜、信じられない。そんな人には見えない」
・・・その後は覚えていない。

こういう「非難される夢」は頻繁に見る。
今回は擁護してくれる人がいたが、いつも見る夢では
味方が誰もいなくて延々と罵倒される。
反論しようとするが、舌が上手く回らず歯がゆい思いをする。
その時は、きっと寝言を言っているんだろう。
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